概要
Raskovnik (ラスコヴニク) はセルビアやブルガリア等の東南ヨーロッパ地域に伝わる魔法の薬草で、あらゆる鍵を開くことができると伝えられている。
本稿では、この Raskovnik についての伝承や比定される現実の植物について述べ、最後にまとめを行う。
伝承
Raskovnik はセルビアやブルガリア等の東南ヨーロッパ地域に伝わる魔法の薬草で、ドアや南京錠、あるいはチェストやフェンスといった、あらゆる鍵を開くことができると伝えられている1Andrea Pieroni, Cassandra L. Quave (2014), p.2482Anne Kindersley (1976), p.276。
また、鍵だけでなく地中に隠された宝物を明らかにするとされており3Andrea Pieroni, Cassandra L. Quave (2014), p.2484Anne Kindersley (1976), p.1645Anne Kindersley (1976), p.276、伝説におけるラドヴァン皇帝(Tsar Radovan)の宝は、 Raskovnik の力を借りなければ見付けることができない、とまでいわれている6Andrea Pieroni, Cassandra L. Quave (2014), p.249。
この他にも民間信仰では、結婚式でかけられた魔術やまじないを解呪する、女性の不妊を治す、囚われたり呪われた魂を解放する、という言い伝えられたり、セルビア東部では係争を解決し、ビジネスを成功に導き、愛や幸福をもたらす、ともいわれる7Andrea Pieroni, Cassandra L. Quave (2014), p.249。
以上に挙げた伝承では魔術やまじないを解呪する、女性の不妊を治すといった(魔法の)薬草らしい効力も存在するものの、冒頭に挙げたような人体以外に対して効果を発揮する、おおよそ「薬草」らしからぬ効力を持つとされる不思議な薬草、それが Raskovnik である。
比定
それでは、この不思議な効力を持った魔法の薬草はどのような姿形を考えられていたのだろうか。
例えば、『ブルガリア語辞典』で Raskovnik について調べてみると「(幸福をもたらす)四つ葉のクローバー」と記されている8松永 緑弥 (1995), p.517。
また、スラヴ圏での植物にまつわる神話・伝説を植物ごとに記した『Slavic Mythology Magic of Plants』のクローバーの項目(Detelina (trifolium pratense), Clover)にはどんな鍵も開けることができる、聖ジョージの日の前であればお金も見付けられる、馬が踏むと蹄鉄の釘が全て抜け落ちる、と記されている9Vladimir Zlatic (2021), p.79。また、クローバーで柵に触れると柵が崩れる、クローバーを手のひらに持った人は鍵がなくともどんな錠前も開けることができるといった記述や、埋もれた宝を見付けるのに役立つ、ともされる10Vladimir Zlatic (2021), p.79。
この書は実在の植物に伝わる言い伝えを記すスタンスのため Raskovnik という名前こそ記述されていないが、その効力は先述した Raskovnik のそれと符合する。そこで、先述の『ブルガリア語辞典』の Raskovnik の記述も合わせると、 Raskovnik は四つ葉のクローバーとイメージされるケースがあったと考えられる。
一方で、バルカン半島における薬草の効力・地域ごとの用途・文化・伝承等を扱っている『Ethnobotany and Biocultural Diversities in the Balkans』では、 Raskovnik は Laserwort の項目に記されており、かつ Laserwort は括弧書きで Laserpitium trilobum, Laserpitium siler とある11Andrea Pieroni, Cassandra L. Quave (2014), p.248。
また、『THE SHORTER OXFORD ENGLISH DICTIONARY ON HISTORICALPRINCIPLES』で Laserwort の項目を引くと Laserpitium 属に属する植物の俗称で、特に Laserpitium latifolium のことと記されている12Oxford university press (1973)。
以上より、 Laserwort は Laserpitium 属に属する植物、特に Laserpitium trilobum, Laserpitium siler, Laserpitium latifolium のいずれかであると想定される。
ところで、この Laserwort は古代ギリシャや古代ローマでは Silphium (Silphion) と呼ばれていたことが示唆されている13Lisa Briggs, Jens Jakobsson (2022)ため、以下 Silphium について言及する。
Silphium は現在はキク科シルフィウム属の植物を指す名前となっている14クリストファー・ブリッケル責任編集, 塚本 洋太郎監訳 (1992)15トニー・ロード, 他12名, 井口 智子翻訳責任 (2005)が、それとは別にヘロドトス、アリストパネス、テオプラストスといった紀元前の古代ギリシャの人物が Silphium について言及している16Lisa Briggs, Jens Jakobsson (2022)。
また、紀元後まで時代が下るがプリニウスも『博物誌』でこの Silphium について詳細に記述している17Lisa Briggs, Jens Jakobsson (2022)。
『博物誌』に拠れば、キュレナイカ州原産の植物であり、その汁は「ラーセル(Laser)」と呼ばれて薬として重要な地位を占めるものであったという18Lisa Briggs, Jens Jakobsson (2022)19プリニウス, 中野 定夫・中野 里美・中野 美代訳 (1986), p.833。
ただし、プリニウスの時代には Silphium は絶滅していたと考えられ、キュレナイカ州の最後の一本の Silphium の茎が発見された際はローマのネロ帝に献上されたと記されている20Lisa Briggs, Jens Jakobsson (2022)21プリニウス, 中野 定夫・中野 里美・中野 美代訳 (1986), p.833。そこでプリニウスの時代では、キュレナイカ州以外の土地、ペルシア、メディア、アルメニアから輸入していたが、キュレナイカ州のものと比べると遙かに質が劣るものだったという22Lisa Briggs, Jens Jakobsson (2022)23プリニウス, 中野 定夫・中野 里美・中野 美代訳 (1986), p.833。
その特徴として、 Silphium は大きく太い根を持ち、ウイキョウと同じくらいの太さの茎を持ち、葉はマスペトゥムと呼ばれてセロリに酷似しているという24プリニウス, 中野 定夫・中野 里美・中野 美代訳 (1986), p.834。また、種子も葉に似ており、葉は春に落ちるといい、その葉を家畜の餌にすると最初は下剤の効果をもたらすが、その後は肥えて肉の味が非常に良くなったという25プリニウス, 中野 定夫・中野 里美・中野 美代訳 (1986), p.834。
こうした植物の特性の中でも先述した汁が特徴的であり、根と茎のそれぞれからリズィアスとカウリアスという名前で呼ばれる汁が採集されたが、前者の方が重宝された26プリニウス, 中野 定夫・中野 里美・中野 美代訳 (1986), p.834。
これらの記述から、 Silphium, さらに Laserwort の植物的な特徴をある程度窺い知ることができる。
また、 Laserwort の植物的特徴としては、根が人体の形状をしている(頭、首、腕、脚、眼がある)、という記述もある27Andrea Pieroni, Cassandra L. Quave (2014), p.248。ここまで来るとマンドラゴラ(マンドレイク)のような様相を呈するが、根が太いという特徴から、場合によっては人体のような形状をした根をした個体があった可能性は考えられる。
その他の特徴・記述
Raskovnik の名称について見てみると、セルビア語の多くの病気を治すという意味の “raskiva” や、同じく鍵を開錠・解除する “raskiva” との関係が示唆されている28Andrea Pieroni, Cassandra L. Quave (2014), p.248。
一方、 Raskovnik を入手する方法としては、亀の巣を柵で囲う、というものがある。こうすることで亀は巣に戻れないことを悟ると、どこからか Raskovnik を見付けてきて舌の下に入れて来て柵に触れて柵を壊すため、その亀から Raskovnik を入手することができるという29Vladimir Zlatic (2021), p.79-80。
また、セルビアの旅行記『THE MOUNTAINS OF SERBIA Travels throuugh Inland Yugoslavia』では著者が地元の魔女とされる人物から Raskovnik とされる薬草を購入したことが記されている。それに拠れば、乾燥していたのか、”髪の毛の束のよう”だったという30Anne Kindersley (1976), p.276。加えて、この記述から20世紀においても Raskovnik の存在や効力が信じられていることが窺える。
まとめ
本稿では、 Raskovnik の特徴や比定される植物について調査し、得られた情報を記述した。
Raskovnik はセルビアやブルガリア等の東南ヨーロッパ地域で、ドアや南京錠等のあらゆる鍵を開くことができる、あるいは地下に隠された宝物の所在を明らかにする効力を有する魔法の薬草である。
比定される現実の植物として、四つ葉のクローバーや Laserpitium 属に属する植物 Laserwort が考えられ、 Laserwort は古代ギリシャでは Silphium と呼ばれている植物であった。 Raskovnik そのものは汁が薬用として使用されたという伝承は今回の調査では見受けられなかったため、 Raskovnik と Silphium を直接的に同定することは難しいが、共に Laserwort が比定される植物として考えられることから Silphium についても言及した。
ただし、 Laserwort とされる植物、 Laserpitium trilobum, Laserpitium siler, Laserpitium latifolium のいずれも記述されている文献を見付けることができなかったため、より科学的見地に基づいた植物的な特性や植生についての詳細は未詳である。
伝承においても、今回の調査では残念ながら地下に隠されたラドヴァン皇帝(Tsar Radovan)の宝について言及した伝説を見付けることができなかった。見付かったものとしては唯一ユーゴスラビアの詩人、外交官である Jovan Ducic 著のズバリその名前『King Radovan’s Treasure』があった程度で、こちらについても未詳である。
これらについて資料が見付かれば、追記を行いたいと考えている。
参考
- Andrea Pieroni, Cassandra L. Quave (2014), 『Ethnobotany and Biocultural Diversities in the Balkans』, Springer, 978-1-4939-1491-3
- Anne Kindersley (1976), 『THE MOUNTAINS OF SERBIA Travels throuugh Inland Yugoslavia』, John Murray
- 松永 緑弥 (1995), 『ブルガリア語辞典』, 大学書林, 4-475-0013105
- Vladimir Zlatic (2021), 『Slavic Mythology Magic of Plants』, 979-8-5004-7413-1
- H. W. Fowler and Jessie Coulson (1973), 『THE SHORTER OXFORD ENGLISH DICTIONARY ON HISTORICALPRINCIPLES A-MARKWORTHY』, Oxford university press, Third edition
- H. W. Fowler and Jessie Coulson (1973), 『THE SHORTER OXFORD ENGLISH DICTIONARY ON HISTORICALPRINCIPLES MARL-Z』, Oxford university press, Third edition
- Lisa Briggs, Jens Jakobsson (2022), 『Searching for Silphium: An Updated Review』. Heritage
- クリストファー・ブリッケル責任編集, 塚本 洋太郎監訳 (1992), 『すべての園芸家のための 花と植物百科』, 英国王立園芸協会, 株式会社同朋舎
- トニー・ロード, 他12名, 井口 智子翻訳責任 (2005), 『フローラ FLORA』, 産調出版
- プリニウス, 中野 定夫・中野 里美・中野 美代訳 (1986) 『プリニウスの博物誌 II』, 雄山閣出版株式会社, 4-639-00571-7