記録に残る赤雪(紅雪)とまつわる伝説と虹と市場の神について

概要

『東方酔蝶華 ロータスイーター達の酔醒(以下、『酔蝶華』とする)』37話、38話『商人と酔いどれは直ぐには立たぬ』にて赤い雪(紅雪)にまつわるエピソードが取り上げられた。あらすじとしては、赤い雪が降ったために市場の神である天弓千亦が博麗神社で臨時の市場を開く、というものである。

前半部では、物語の契機となった赤い雪に焦点を当てて実際の記録と比較を行う。後半部では、今回のストーリーと虹と市の神様である天弓千亦との関わりを見ていく。

赤い雪の記録

赤い雪は『中陵漫録 巻十四』に次のように記されている。

文化六年の冬、越後の高田の辺に紅色の雪降る。春に至ても往々降る事ありと、この土の老翁云ひ伝へたり。按ずるに建武九年正月月紅雨降とあり。この非常を聞く者大いに驚き、天変の如く恐れを為す。

人々が恐れたのは赤い雪そのものではなく「月紅雨降」の方だが、著者はこの文に続けて「理由を知れば恐れる必要はない」と断じている。

羽州の吾妻山の頂から見た際に山の上部半里は赤土であり、斜面が崩れると往々にして水が溜まる。その沼池は皆水が赤い。この水が雨になると淡い赤色になり、雪も同様に淡い赤色になる、と。つまり赤い雪の原因は山上の赤い土のせいだ、と記している1柴田 宵曲編(S.36), p.162

赤い雪の原因を同様に赤い土だとするものは江戸時代の石川如見著『怪異弁断 巻八』にも見られる2藤澤 衞彦(S.30), p.125-1263世間 良彦(1994), p.46

すべて雨水は元、地より昇れるものなり。空際に至って湿熱に蒸煉して、その色赤く変じて降れるなり。又、地中より昇上の暴気、水を捲き、泥土を挟んで登るに、その泥土、丹土の地なる時は、即ち丹土を挟んでのぼらんこと、疑いなし。その丹土、雲雨に融じて地に降る時は、これ血雨なり。雪に色あるの義も、また雨血の弁をもって知るべし。

これらはいずれも大気中の水分に先に赤土の粒子が混ざり、赤みを帯びた雪として降り積もる、という説明をしている。

また、『日本民俗文化資料集成 第十二巻』ではトキ(ダオ)の羽毛の色になぞらえて「ダオ雪」とよばれる例を記している4谷川 健一(1993), p.67。本書では大陸の砂塵が風で運ばれ、日本海を越えて雪の上に降ると雪が赤くなる、と記している5谷川 健一(1993), p.67。これは既に雪が降り積もった後に後天的要因で赤くなる、というものである。

こちらのケースでは石英・正長石・角閃石・黒雲母・燐灰石・風信子石・緑泥石・陶土等の鉱物の欠片に含有する酸化鉄のために黄褐色になる、とする6谷川 健一(1993), p.67

ただし、こうした赤い雪の原因は今日では既に降り積もった雪に後天的要因で色が付くと考えられており、その要因も土ではなく紅雪藻(Sphaerella nivalis)7藤澤 衞彦(S.30), p.125のような藻の類が雪の上で繁殖して着色されるものと考えられている。

なお、純粋に赤い雪そのものの記録としては他には『倭年代記』では滅多にはないものの、十回程度が記録されている8藤澤 衞彦(S.30), p.125-1269世間 良彦(1994), p.46

このような赤い雪は日本だけではなく、中国においても次のように記された例がある10藤澤 衞彦(S.30), p.126

武帝太康七年十月、河陰に赤雪二頃あり、後四歳にして帝崩ずる (晋書)

(我烏)管山霜、紫に染むべし。天下の為に冠す。人、知る者なきを恨む (湘譚記)

これらの例から、異変と関連付ける考えがあったことが窺える。

雪女の伝説

少し話は逸れるが、こうした赤い雪は異変とだけ関連付けられたわけではないようである。

甲斐地方の古い伝承では、雪女が山姥の姿や経歴を笑ったために山の神の怒りに触れて、赤い雪が降るまでは純潔でいなければならなくなった、というものがある。しかしながら、赤い雪が降ると雪女は男と結ばれて子供を設けるが、そうなればかつて笑った山姥と同じ様子となり溶けて消えてしまう、という11世間 良彦(1994), p.4612藤澤 衞彦(S.30), p.124-125

これは雪女を雪の白さや儚さから、美女の姿としてイメージされたものと思われる。その点では雪女をそのような美女としてイメージするようになったのがいつ頃なのかについて注意する必要があるものの、一つの伝承としてここに記載しておく。

異変と市場

さて、話を今回の『酔蝶華』に戻そう。先の通り、時として天変地異の如く畏怖された赤い雪に対する人々の不安を払拭するために、劇中で行われた対処法が市場の開催であった。

そしてこの市場の開催の発案者は、『東方虹龍洞 ~ Unconnected Marketeers.(以下、『虹龍洞』とする)』で登場した天弓千亦であった。端的に言ってしまえば彼女は市場の神様だが、単純にそれだけではなく、一つの気象現象を付け加えねばなるまい。

それは『虹』である。虹はタイトルにそのままズバリ入っており、ステージ6タイトル「月虹市場 Lunar Rainbow Market」、同ステージ道中曲「ルナレインボー」、さらに千亦自身の衣装の配色、弾幕の配色、さらにスペルカード「虹人環」……と至る所に散りばめられている。この他にも、「少女祈祷中…」のローディングで虹色の輪が流れたり、ステージ1で雨上がりに虹がかかったり、ステージ5ボス・飯綱丸龍のスペルカードの一つに虹光「光風霽月」があったりする。

さて、その市場と虹の関係性は次の一点で示すことができる。日本には中世に「虹が現れた場所に市を立てて売買を行わなければならない」という慣習があった13勝俣 鎮夫(1986), p.184-18514勝俣 鎮夫(1988), p.15415小野地 健(2007)a, p.2916小野地 健(2007)b, p.26

例えば、『日本略記』長元三(1030)年七月六日の項には

關白并春宮大夫家虹立。依世俗説。有売買事。

とあり、法令などではなく「世俗説」に依って虹が立った場所で売買が行われたことが分かる17勝俣 鎮夫(1986), p.184-18518小野地 健(2007)b, p.26。それでは、何故虹が現れた場所に市を立てるのか、という根拠については『中右記』ではその答申として、先例はあるものの

諸道勘文皆虹見ゆる処市を立つるの文無し、これただ俗語か

とあり19勝俣 鎮夫(1986), p.184-185、『日本略記』と同様慣習として行われていた、もっと言えば虹が現れた場所では人々は売買を行わなければならない、そのために市を立てなければならない、という考えがあったものと考えられる20勝俣 鎮夫(1986), p.184-18521小野地 健(2007)b, p.26

なお、『日本略記』の他の例としては、例えば『百錬抄』に

六条中院前の池に虹立つ、市を立つべき由議有りといえども公所先例なきにより止められる

と実際には行われなかったにせよ「市を立つべき由議有り」と考えられていたことや22勝俣 鎮夫(1986), p.184-185、『愚管記』に

七月四日辰、金堂艮の角より、虹坤方へ吹き上ぐ、満寺驚く。廿五日より三日の間市を立つ由

とあること23勝俣 鎮夫(1986), p.184-185など、確かに虹が現れた場所に市を立てるという慣習があったことが窺える。

そもそもとして、市(イチ)は柳田国男『山の人生』にて

イチは現代に至るまで、神に仕える女性を意味している。語の起こりは、イツキメ(斎女)であったろうが、また一(イチ)の巫女などとも書いて最も主神に近接する者の意味に解し……(後略)

という解釈24勝俣 鎮夫(1986), p.184-185から、イチとイツクの関連性を指摘している。折口信夫は『山のことぶれ』で

さうした祭り日に、神を待ち迎へる、村の寄り合うて、神を接待(いつ)く場(にわ)が用意せられた。神の接待場(イチニハ)だから、いちと言はれて、ここに日本の市の起源は開かれた

というように、神を接待(いつ)く場(にわ)と捉えている25小野地 健(2007)a, p.58。これらの例のように、市(イチ)は聖なる空間と考えられていたことが示唆される。

一方、西郷信綱は民俗学的な諸説を批判しつつ、以下のように主張している。

不確かな語源から天降って考えるより、イチ(市)、ミチ(道)、マチ(町)等が語構成を同じうし、「チ」を共有している言語学上の事実に注目することこそ肝心である。そしてその「チ」はみな道に関連しているはずである。

このように、西郷はイチは祭祀ではなく道に関連し、それは境・境界であって、市は共同体の内部ではなく異質の人々の出会う境界にたつものであることを指摘した26小野地 健(2007)a, p.58-59。とはいえ、この説であっても市は日常的な内部の空間ではなく、外部との境界に成立するものという点は特徴的である。

そうした市の性質として、勝俣鎮夫は『VI 売買・質入れと所有観念』で市での売買・交換は単に人と人の間での売買・交換ではなく、神との売買・交換という観念が設定される27勝俣 鎮夫(1986), p.191、としている。つまり、物品が売り手から買い手に物品が渡るその瞬間に物品は売り手のモノでも、買い手のモノでもなく、神仏に所有権が移ると考えられ、その状態では物品はニュートラル(中立)な状態に戻る。これは、例え盗品であろうとも市であれば交換可能(盗まれたもの、という属性・関係を断ち切ることができる)という点でも見ることができる28小野地 健(2007)b, p.2629勝俣 鎮夫(1986), p.188-191

また、市そのものの機能としては物品の「売買」が行われる、即ち「関係を(その場で即座に)清算する」ことと捉えることができると小野地健は指摘している30小野地 健(2007)b, p.26。市における物の交換は売り手が買い手へ物品を渡す代わりに、買い手は売り手へ対価を即座に支払うことで関係が清算され、そこで関係性が断ち切られて終了する31小野地 健(2007)b, p.26。これは、その場では対価を支払うことができずに貸し(負い目)が生まれて関係性が持続・深化する「贈与」とは対照的なものである32小野地 健(2007)b, p.26

さて、今度は虹について見てみる。

柳田国男は蛇の名称の分析から、

虹が古人の信仰では蛇類の一つであり、その名のヌジ・ミョウジ等もウナギ・アナゴとともに、最初は一つの語であったらしきこと、及び淵池の主というヌシの語のごときも、その残留

と虹と蛇の関係性を指摘した33小野地 健(2007)a, p.30-31。虹を対象として総合的な研究をした安田清は虹が水から出現するという俗信は日本古代から歴史的に存在し、その由来として虹を竜蛇とみなす信仰があったと主張した34小野地 健(2007)a, p.30-31。この他にも安田は

精霊は虹を通って往来する

神は虹によって旅をする

虹は天女が入浴する時天降ってくる橋

等の俗信が世界各地に存在し、虹が多くの民族の神話で天と地の間の橋とされていることを指摘している35勝俣 鎮夫(1986), p.184-185

これらの指摘から、勝俣鎮夫は『VI 売買・質入れと所有観念』で

虹は古来「天をわたる」「天を経る」橋と考えられていたのであり、虹が立てばその橋を渡って天神・精霊などの神々が降りてくること、すなわち神の示現と考えられ、虹の立つところは、神々が下りてくる天界からの俗界への出口、俗界からの天界への入口とされたのである。そのため、天界と俗界の境界領域とされた虹の立つところは、そこが現実にはいかなる場所であれ、いかなる時間であれ、神迎えの行事をすることが必要であったのであり、論理的には、その祭の行事そのものが、市を立て売買を行うことであったと考えられる。

と指摘している36勝俣 鎮夫(1986), p.186。つまり、虹が見られた場所は神々が降り立つ聖なる空間と俗世界の境界であり、神迎えの祭祀として市を立てて売買を行う必要がある、という考えである。

一方、大林太良が虹は天と地や晴れと雨のどっち付かずの現象であることや、色彩が他の自然現象では見られない異常性を持つことから世界の多くの民族で不気味と考えられたとする説37小野地 健(2007)a, p.32を踏まえて、小野地健は虹はカテゴリー同士を過剰に近接させる(カテゴリーを積極的に結び付けてしまう)存在であり、

虹は望ましいものを結びつけるプラスの面が強調されることもあれば、反面、望ましくないものを結びつけてしまうマイナスの面としても作用する。

という関係の過剰性のシンボリズムだと指摘している38小野地 健(2007)b, p.2639小野地 健(2007)a, p.52。そして、そのように関係を過剰に近接させる虹は分類(遠隔)秩序を混乱させる現象であり、その関係性を清算させるために先述の市を立てるのだと考えている40小野地 健(2007)b, p.2641小野地 健(2007)a, p.69-71。つまり、

虹が立ったところに市をたてる、という慣習は、虹によってもたらされた分類秩序の混乱に対して、人間の側からは、それとは正反対の論理である関係を清算し断ち切る市場交換の場としての市を作り出すことで、混乱を調停し秩序の回復を図ろうとしたのだ。

と指摘している42小野地 健(2007)b, p.26

以上のような虹と市の関係性を踏まえて、改めて『酔蝶華』での千亦の行動を見てみると、彼女の市場の神様としての性質が浮き彫りになる。

特に、今回のケースでは赤い雪という人々を不安に陥れる自然現象に対してその不安を払拭する、つまり混乱をもたらす天変地異と人間社会の秩序との調停として市場を開催したというのは小野地健の指摘する虹の立つところに市を立てるという論理そのものである。まさに、虹と市という彼女のアイデンティティそのものである。

一方で、『虹龍洞』のストーリーでは何らかの天変地異としての自然現象が発生し、それに対して市が立てられたわけではない。むしろストーリーの最初からアビリティカードが流通している、つまり市が成立しており、そのアビリティカードの出所を探るというのがあらすじであった。その点では『虹龍洞』の千亦は純粋に虹と市をアイデンティティとしており、無主物や所有権に関するセリフやスペルカードから、むしろ勝俣鎮夫の論で述べられている性質が主であったと考えられる。

その意味では今回の『酔蝶華』のストーリーは単純に『虹龍洞』で新出した千亦の虹と市の神様としての性質をダイジェストとして焼き直したわけではなく、『虹龍洞』時とは異なる側面を覗かせるものであったと言うことができよう。

出典

参考

  • 柴田 宵曲編(S.36), 『随筆辞典 4奇談異聞編』, 株式会社東京堂
  • 藤澤 衞彦(S.30), 『日本民族伝説全集 第九, 株式会社河出書房
  • 世間 良彦(1994), 『図説 日本未確認生物事典』, 柏美術出版社
  • 谷川 健一(1993), 『日本民俗文化資料集成 第十二巻』, 株式会社三一書房
  • 勝俣 鎮夫(1986), 『VI 売買・質入れと所有観念』(山口 啓二, 吉村 武彦, 峰岸 純夫, 小田 雄三, 深谷 克己, 笠松 宏至, 勝俣 鎮夫, 筧 雅博, 戸田 芳実, 久留島 浩(1986), 『日本の社会史 第4巻 負担と贈与』収容(p.181-209)), 株式会社岩波書店
  • 勝俣 鎮夫(1988), 『中世から近世へ ――聖から俗への転換――』(網野 善彦, 石井 進, 上横手 雅敬, 大隈 和雄, 勝俣 鎮夫(1988), 『日本中世史像の再検討』収容(p.139-167)), 株式会社山川出版社
  • a. 小野地 健(2007), 『虹と市 : 境界と交換のシンボリズム』(『人文研究 : 神奈川大学人文学会誌 160』収容(p.29-76)), 神奈川大学
  • b. 小野地 健(2007), 『コラム 「虹」と「市」』(『非文字資料研究 No.16』収容(p.26)), 神奈川大学21世紀COEプログラム研究推進会議
  • 新村 出(2008), 『広辞苑 第六版』, 岩波書店

脚注

  • 1
    柴田 宵曲編(S.36), p.162
  • 2
    藤澤 衞彦(S.30), p.125-126
  • 3
    世間 良彦(1994), p.46
  • 4
    谷川 健一(1993), p.67
  • 5
    谷川 健一(1993), p.67
  • 6
    谷川 健一(1993), p.67
  • 7
    藤澤 衞彦(S.30), p.125
  • 8
    藤澤 衞彦(S.30), p.125-126
  • 9
    世間 良彦(1994), p.46
  • 10
    藤澤 衞彦(S.30), p.126
  • 11
    世間 良彦(1994), p.46
  • 12
    藤澤 衞彦(S.30), p.124-125
  • 13
    勝俣 鎮夫(1986), p.184-185
  • 14
    勝俣 鎮夫(1988), p.154
  • 15
    小野地 健(2007)a, p.29
  • 16
    小野地 健(2007)b, p.26
  • 17
    勝俣 鎮夫(1986), p.184-185
  • 18
    小野地 健(2007)b, p.26
  • 19
    勝俣 鎮夫(1986), p.184-185
  • 20
    勝俣 鎮夫(1986), p.184-185
  • 21
    小野地 健(2007)b, p.26
  • 22
    勝俣 鎮夫(1986), p.184-185
  • 23
    勝俣 鎮夫(1986), p.184-185
  • 24
    勝俣 鎮夫(1986), p.184-185
  • 25
    小野地 健(2007)a, p.58
  • 26
    小野地 健(2007)a, p.58-59
  • 27
    勝俣 鎮夫(1986), p.191
  • 28
    小野地 健(2007)b, p.26
  • 29
    勝俣 鎮夫(1986), p.188-191
  • 30
    小野地 健(2007)b, p.26
  • 31
    小野地 健(2007)b, p.26
  • 32
    小野地 健(2007)b, p.26
  • 33
    小野地 健(2007)a, p.30-31
  • 34
    小野地 健(2007)a, p.30-31
  • 35
    勝俣 鎮夫(1986), p.184-185
  • 36
    勝俣 鎮夫(1986), p.186
  • 37
    小野地 健(2007)a, p.32
  • 38
    小野地 健(2007)b, p.26
  • 39
    小野地 健(2007)a, p.52
  • 40
    小野地 健(2007)b, p.26
  • 41
    小野地 健(2007)a, p.69-71
  • 42
    小野地 健(2007)b, p.26

この記事を書いた人

アルム=バンド

東方Project から神社と妖怪方面を渡り歩くようになって早幾年。元ネタを調べたり考察したり巡礼・探訪したりしています。たまに他の事物も調べたりします。
音楽だと Pain of Salvation を中心に Dream Theater などのプログレッシブメタルをメインに聞いています。
本は 平行植物 。