あやややや
これは言うまでも無く、『東方風神録 ~Mountain of Faith.』ステージ4にて霊夢や魔理沙と対峙した文が発した言葉である。
このセリフを見て、ある者は毒気を抜かれ、またある者はまだ姿を見せていない敵の正体を確信し驚嘆したことであろう。
かくいう筆者もこのセリフには笑わざるをえなかった。おそらく、風神録中でも一、二を争う名(迷)ゼリフだと思われる。
さて、このセリフで敵の正体が文と確信する要因は、極めて単純な理由である。
セリフがそのまま、文という名前を言っているからだ。これも、ZUN氏の言葉遊びの一環であったのかもしれない。
しかし、この語には割と以外な意味が含まれていた。古語で「あや」は、驚いたときの感嘆の声を表す。今風に訳せば、「ああ」や「あら」といったところであろうか。
文は、上司の大天狗に命ぜられるままに意味も判らず侵入者の許へ遣わされる。そして、自分がいつも新聞のネタにしている少女の姿を発見する。
その為に彼女は驚き、感嘆の声を上げたのであろう。とすれば、その意味ではこのセリフの使い方は間違っていないということになる。
ところで、我々人間が驚くときとは一体どういった時であろうか。それは、その人間の想定を覆す現象が起きたときである。その人間が当然、常識だと思っているものをひっくり返す現象・存在が出現すれば、人間は驚嘆の声を上げる。
そして、人間の常識を覆す存在の最たるものこそ妖怪であると考えられる。
ある者は人間とは似て非なる存在。体のいずれかの部品の数が多かったり大きかったりする。またある者は、明らかに人間とは異なる異形。鳥獣や物品の姿をモチーフとしていたり、特殊な能力を持ったりする。
妖怪という文字、”妖”も”怪”も共に「あや」しい、と読む。このあやしい、という語も、一説では先の驚嘆の声「あや」が活用して成立した語とされる。
つまり妖怪とは人に驚きの声を上げさせる存在、即ち、人の常識を覆し、驚かせる存在であるということができる。それこそが、”あや”、”あや”かし、であった。
さて、日本には古来から名がその者の一生を決定するという考えがあった。
特に古い命名法では、もう子供は要らないという時は”末”や”留”といったとめ名と呼ばれる名や、首にへその緒を巻いて生まれた子は、袈裟との類似から”ケサ”を名に含ませるなど、より呪術的な意味合いが強かった。
現在でも、慣用句に「名は体を表す」というものがあり、名がその者の性質を左右するという考えは生きているようである。
とすれば。
あやややや、というセリフの通り、”文”という名は人間の驚嘆の声であり、また驚嘆の声を上げさせる存在だと示していると考えられる。
――成程。道理で、文が妖怪の中でも強者とされるわけだ。
その名前が、”自分は妖怪である”。”常識を覆す存在”だと言っているのだから、彼女がまだ我々の想定を超える力を持っていても、不思議ではないだろう。
※ なお、”文”の名前には新聞記者を指す俗語、「”ブン”屋」を始めとして上記の他にも複数の意味を持つと考えられる。上記の内容はあくまでその一断片であると思って頂けると幸いである。
― 出典 ―
- 『東方風神録 ~Mountain of Faith.』 上海アリス幻樂団製作 2007
― 参考資料 ―
- 『古語林』 林 巨樹/安藤 千鶴子編 株式会社大修館 1997
- 『妖怪・怪物 東洋文庫 ふしぎの国Ⅰ』 荒俣 宏編 株式会社平凡社 1989
- 『民俗の事典』 大間知篤三ら編集 岩崎美術社 1972
- 『日本を知る事典』 大島 建彦・大森 志郎ら編集 株式会社社会思想社 S.46