なお、この考察を書くに当たって、
- 『』で括られたものは書物や文献、出典
- 「」で括られたものは下に挙げるキーワード
- “”で括られたものは、「」以外で重要な単語、或いはその文章で注目したい語
を表すという風に分類させて頂いた。
また、 上付数字が付随されている項目は、最後尾に余談が記されている。もし興味があればどうぞ。
では、本論に入りたいと思う。まず、阿求を知る為に以下の4つのキーワードを挙げる。
- 稗田阿礼(ひえだのあれ)
- 求聞持(ぐもんじ)
- みあれ
- アメノウズメノミコト
これは、筆者が調べの過程で特に重要と感じたものである。以下、おおよそこのキーワードに沿って掘り進めて行きたいと思う。
― 第1章 ~稗田阿求の原像~ ―
阿求の原像。それは、結論から言ってしまえば「稗田阿礼」その人である。この名前は求聞史紀中にも幾度も登場しており、阿求を知る上で最初に通過する単語であろう。
求聞史紀での独白や最後の編集者の一覧を見れば、阿礼の”礼”を”0”として、以降阿求の”求”、つまり”9”まで通し番号となっている事はすぐに理解できる。無論、阿求が九代目というのもここからである。
阿求の祖に当たる「稗田阿礼」。その名は、『古事記』の編纂に携わったとして今日まで語り継がれている。阿礼の生まれ変わり、”御阿礼の子”が代々”幻想郷縁起”を編纂している事は、阿礼が『古事記』編纂に深く関ったという点から納得が行くであろう[1]。
さて、その『古事記』序文によると、阿礼は天武天皇からの勅命を受けて
『帝皇日継』、『先代旧辞』といった記録を”誦習”したという。
この”誦習”という行為について定かではなく、推測の域を出ない。幾つかの説を取り上げると、”語り伝えられていた昔の神話や非常に読みづらい古書を、節をつけて諳んじる”、或いは”自分が諳んじる口碑を他の人に書き取らせ、読み物の形に纏めるような仕事”といった類の事らしい。
はっきりとした事は判らないが、いずれにせよ、阿礼の記憶力の高さ・聡明さが非凡である事は窺える。
阿礼を初めとする”御阿礼の子”が持つ「求聞持」の能力とは、他でもなくこの頭脳明晰さ・記憶力の高さに起因している。また「求聞持」の能力とは、それを端的に表している言葉であろう。
「求聞持」とは、本来は”求聞持(の)法”、”虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)”等と呼ばれる、仏教の一部の修行者や修験者、密教修行者等に伝わる修行法の一つである。
その効果は、求聞(=見聞)した物事を持続させる。つまり、見聞きした事を忘れなくするというもので、「求聞持」の能力の内容そのものである。
では、その聡明たる「稗田阿礼」とは如何なる人物なのだろうか?
実は、阿礼については殆ど判っていない。阿礼に関する記述・資料が少ない事もあるが、阿礼と密接に関係する『古事記』はその成立について謎が多い。それ故に謎と謎が交じり合い、確かな定説があまり無いというのが現状のようである。
よって、生没年はおろか、性別もはっきりしていない。挙句の果てには、実在したかどうかすら怪しいという話すらもある。
…尤も、実在が怪しいからこそ幻想郷の中に上手く馴染めたとも考えられるのだが…
― 第2章 ~御阿礼の子~ ―
さて、「稗田阿礼」について謎が多いとは言うものの、そこで行き詰ってはこれ以上の考察は望めない。
「稗田阿礼」が、阿求を知る上で最も重要な基盤となるからである。そこで、いくらか信憑性がありそうな情報・阿求と関わりが深いと思われる説から切り込んで行きたいと思う。
なお、「稗田阿礼」が実在かどうかはここでは問わない。阿求を知る上であまり関係が無いからである。
生没年については、確かなことが判らない以上あまり深くは立ち入れる事はできない。但し、天武天皇の勅命を受けて上述の”誦習”を行い、『古事記』を編纂する上で重要な役割を果たしたという記述から推測するならば、「稗田阿礼」は紀元後700年前後に存在していたと考えられる、という所までは言及できるであろう。しかし、これ以上の言及は本論より大きく脱線するので割愛する[2]。
では、性別はどうであろうか?先程、第1章では性別不明と筆者は記した。しかし、筆者は女性説を推したい。何故ならば、その方が阿求について更に言及することが可能だからである。
「稗田阿礼」を女性とする論拠として、第3のキーワード”みあれ”が関ってくる。
先述のように、筆者は阿礼から阿求までの生まれ変わりを、求聞史紀に倣って”御阿礼の子”と称していたが、この語は”「みあれ」のこ”と読み、実は第3のキーワードと同訓である。
「みあれ」は”御阿礼”のほか、”御生”、”御形”と書かれる事もある。その原義は、”み”が敬称、”あれ”が生まれる事を指すと言う。従って、その意味は”神、或いは高貴な人の生誕”と解される。これこそ”御阿礼の子”の誕生を”御阿礼神事”とする由縁であろう。
なお、”御阿礼神事”は京都市の賀茂神社で行われる神事の名前でもある。その由来は、祭りの日の前日に、祭神である別雷神を降臨させる事にある。
そういった神の誕生(天からの降臨)に立ち会う巫女は、昔、アレオトメと呼ばれたそうである。恐らく、「みあれ」に立ち会うのが男性(例えば神主)であれば、アレオトコと称されたと考えられる。”御阿礼の子”を男女によって呼び分けた”アレオトメ”、”アレオトコ”の語はここから見出す事ができる。
さて、上述のように、「みあれ」に立ち会うのは通例巫女とされた。それは、「稗田阿礼」が存在したとされる700年前後でもあまり大きな違いは無さそうである。
それを踏まえると、「稗田阿礼」と「みあれ」の両者の接点が見出す事ができる。即ち、”御阿礼神事”のように、”あれ”は”阿礼”とも記される。そこで「稗田阿礼」は「みあれ」に立ち会うような巫女であると考えられるようになったのである。
また、『弘仁私記』序には”「稗田阿礼」は「アメノウズメノミコト」の後裔(子孫)である”というような記述が見られる。
「アメノウズメノミコト」は、『古事記』や『日本書紀』に登場する女神であり、巫女を神格化した存在ではないかとされている。”巫女の神格化”についての理由は後に詳しく述べる事にするが、この記述からも、「稗田阿礼」が巫女、即ち女性と見られていた一端が見出せる。
故にこの点においても、少女達が跋扈する幻想郷の世界に阿求が馴染む事のできる下地があったと言う事ができよう。
― 第3章 ~阿求の姿~ ―
さて、第1章・第2章を通して、阿求の原像と、阿求にまつわる語を見てきた。ここでは趣を変えて阿求の容姿について言及したいと思う。
そこで、第4のキーワード・「アメノウズメノミコト」が浮上する。
「アメノウズメノミコト」は、主に”天岩戸”と”天孫降臨”の神話で活躍する[3]。
“天岩戸”の神話は下のようなものである。スサノオノミコトの乱暴により、姉神にして高天原の主宰神・アマテラスオオミカミが天岩戸に隠れてしまう。困った神々は、ヤゴコロオモイカネノミコトの計らいによりアマテラスオオミカミを誘い出そうとする。
この時、葛(かずら)を身に纏い、神懸かり的状態とまで言われるほど激しい踊りを見せたのが「アメノウズメノミコト」である。この踊りによって神々は笑い出し、それを不審に思ったアマテラスオオミカミは天岩戸から顔を覗かせる。
一方の”天孫降臨”では以下のような活躍を見せる。アマテラスオオミカミの孫神であるホノニニギノミコトが諸々の神を随伴して天から降(くだ)ろうとしていた。その道の途中に光り輝く不審な神がいた。あまりの眩しさに神々は相対する事ができずにいた。
そこに遣わされた「アメノウズメノミコト」はその力を以って対峙した。これによって相手は、天孫を迎えに来たサルタヒコノミコトであると名乗り[4]、天孫一行を先導したという。
また、「アメノウズメノミコト」は後に”天孫降臨”での功績から、サルタヒコノミコトの名を取って”猿女君(さるめのきみ)”と呼ばれるようになった。
隠れた神を誘い出す・呪力を持って正体不明の神と対峙するといった以上の神話から、「アメノウズメノミコト」の巫女としての性格が窺えるのである。
また、宮中で祭祀を司っていた一族に”猿女氏”という一族がいた。この”猿女氏”は、”猿女君”即ち「アメノウズメノミコト」の子孫とされる。ここからも、「アメノウズメノミコト」の巫女としての性格が強く現れているといえる。そして、この”猿女氏”と”稗田氏”は同族とする考えもある。
これらを総括すると、「稗田阿礼」と巫女が深い関係を持っていると推測ができる[5]。
ところで、巫女は、神が降臨した際に乗り移る”ヨリマシ”とされていた。しかし、”ヨリマシ”とされたのは巫女だけではない。童子もまた、”ヨリマシ”とされる事が多かった。阿求がおおよそ10代前半という年齢で描かれるのも、もしかしたらこの辺りが起因しているのかもしれない。
また、”天岩戸”の神話で、「アメノウズメノミコト」は葛を纏ったとされる。この葛とは、葛を素材として仕立てられた衣装を纏ったのか、単に葛の絵が描かれている衣装なのかは未詳である。しかし、いずれにしてもそう記されている以上、葛とは何かしら関係があったのであろう。では、阿求の衣装…その袖に花葉が描かれているのは偶然であろうか?
最後に、「アメノウズメノミコト」の名前から阿求について言及したい。その名については諸説あるが、興味深い説があるので取り上げる。
古代の神事において、神の霊魂を招き宿らせる依代として巫女が頭に枝葉や花を挿したという。故に、頭挿を挿した女性が巫女の代名詞的な言葉となり、”ウスメ”という語が生じたと言う。即ち、”ウズ”とはこの”頭挿”を意味すると言うのである。
以上を踏まえ、阿求の姿をもう一度見て頂きたい。
花葉を散りばめた衣装。幼さを残す顔。そして、その頭には大きな花の髪飾りがある――
そう、阿求の姿は、この女神の存在に由来するのである。
…と、筆者にはそう思われるのだが、如何であろうか?
以上を以って、稗田阿求についての筆者の考察を終了させて頂く。もし、この考察が読者の糧となるようであれば、筆者にとって光栄である。
― Ex:余談 ―
- 上白沢慧音は『永夜抄』の劇中にて、『古事記』の中の話(神武天皇や三種の神器等)をスペルカードに使用していた。『古事記』という単語から、2人の関係が見出せるのも面白い。
- あえて計算するとしても、”齢30まで生きられない”、”転生時間は百数十年”といった”御阿礼の子”の時代の数字が曖昧である為、そこから計算しても現代を挟むような大雑把な妥当性は見込めるが、価値は薄いと思われる。
- “天岩戸”、”天孫降臨”: 直接の関係は無いので詳しい記述は省くが、”天岩戸”は伊吹萃香のスペルカード、符の壱「天岩戸投げ」”天孫降臨”は射命丸文のスペルカード、塞符「天孫降臨」として、それぞれ東方に馴染がある単語であろう。
- サルタヒコノミコトは風神録にて射命丸文と深く関係する。アメノウズメノミコトを阿求と重ねると、ものを書くという職に関与している2人が背後の神話において深い関係を持つ事になり、興味深い。
- 稗田家にて催される”御阿礼神事”に関して、幻想郷唯一(だった)の博麗神社で祝賀会を行っていた。それは貴人の誕生を神社を通じて神に祝って貰う、という文化上の流れとして当然だったかもしれないが、背後には”巫女”という深い関係があったからと考える事もできるかもしれない。
― 出典 ―
- 『東方求聞史紀 ~ Perfect Memento in Strict Sence.』 ZUN著 一迅社 2007 他
― 参考文献 ―
- 『日本伝奇伝説大事典』 乾 真己ら編集 株式会社角川書店 S.61
- 『「日本の神様」がよくわかる本』 戸部 民史著 PHP研究所 2004
- 『日本架空伝承人名事典』 大隅 和雄ら編集 平凡社 1986
- 『例文 仏教語大辞典』 石田 瑞磨著 小学館 1997
- 『日本民俗大辞典 下』 福田 アジオら編集 吉川弘文館 2000
- 他