――木々の茂る夏の穂高山、濛々もうもうと霧が立ち込める梓川あずさがわの畔ほとりで、男は河童に遭遇した。
男には幾度かの登山経験があった。穂高山を登る道も心得ていた。それ故、彼はその日たった一人で靄もやのかかった山に入って行ったのであった。
しかし、登山を始めてからも霧は深くなる一方。男は剛直に登り続けたが、状況の悪化と疲労から遂に折れた。霧中、音を頼りに谷の下に降り、男は河畔で昼食を取り始めた。ふと腕時計に目をやると、時刻は一時二十分を過ぎたところであった。
そのとき、文字盤のガラスの中で影が蠢うごめいた。男は驚き思わず後ろを振り向いた、そこには。
――そこには、一匹の河童が佇たたずんでいた。
これが、「芥川龍之介の河童」の冒頭に記された主人公の男と河童の邂逅(かいこう)部分のあらましである。
この後、逃げる河童を追って、男は森を疾走する。途中何度もその姿を見失いながらも、男は遂に河童に追いつくことに成功する。
一方、『東方風神録』の劇中、霊夢と魔理沙は「未踏の渓谷」と称された谷の河畔で三度に渡り河童 ― 河城 にとり ― と邂逅する。
渓谷での遭遇、途中何度か見失いながらの追走劇。それは季節こそ違えども、にとりのテーマ曲の名になっている芥川龍之介の著した『河童』と重なる。
また、にとりが「谷カッパのにとり」を自称する点もここに由来すると見て良いのではないだろうか。とするならば、我々がにとりについて考える為にはこの「芥川龍之介の『河童』」について知らなければならないであろう。
まず、そこに描かれている河童の姿は『水虎考略』を始めとする諸々の書物に記され、また我々が知っている姿と基本的には大差は無い。
身長は人間の童子と同程度で、一メートル前後。髪型は所謂おかっぱ頭で、頭頂部に皿と呼ばれる窪くぼみを持つ。顔は、鼻から口にかけて前方に突き出し嘴くちばしを形成している。手足には水かきを持ち、背には甲羅を背負う。
これが、河童の容姿に関わる凡おおよその概要である。
また、小説の『河童』には記されていないが一般的な特徴として、頭の皿に湛える水の量によって強さが変化し、枯渇すると弱体化、或いは死に至るという性質がある。
その他、その腕は伸縮自在で、片方の腕を引っ張るともう片方の腕が縮み、終いには抜け落ちてしまうという。
さらに、人や馬を水中に引きずり込み、溺れさせるという逸話は多く、人の尻(或いは尻子玉という架空の臓器。肝とも考えられた)を食べる為であると伝えられている。
加えて、これは小説や幻想郷の河童には該当しないようだが、金物が苦手であるという性質も持つこともあるようである。
このような容姿・特徴を持ち、”かっぱ巻き”などの名称で我々にも馴染みのある妖怪だが、河童が先述のような我々がよく知る姿で世に現れるようになったのは、決して古い話ではない。
その姿が先述したような我々のよく知る姿で広まったのは実は江戸時代に入ってからのことだという。
それは、それまで各地に散在していた水辺の妖怪 ― 亀に酷似したものや、猿に似たものなど様々な姿をしていた ― が、先述のような水棲で童子型の妖怪を呼ぶ関東一帯の名称”河童”によって統一されていったともいえる。
こうして、様々な水辺の妖怪を複合していった為に河童を別の名 ― メドチ、ヒョースベ、猿猴、水虎など ― で呼ぶ地域も多分にあったのである。と共に、河童には様々な姿形が存在し続けた。
さて、話を小説『河童』に戻そう。
この中では、先に挙げた特徴・性質の他に、独自の設定も組み込まれている。
例えば、その肌の色である。一般に、河童の皮膚の色は緑色であるが、地域や伝承によっては名を変えると共にその皮膚の色も赤黒い色や灰色と伝えられている場合もある。
これに対し、小説に出現する河童は、カメレオンのように周囲の景色に併せて擬態を行うことができると記されている。それ故に、主人公の男は何度も河童の姿を見失ったのである。
光学「オプティカルカモフラージュ」
Optical Camouflage(光学迷彩)。にとりの発言にある新作の「光学迷彩スーツ」とは、このスペルカードそのものも表していると考えられる。
一方で、そのモチーフには先の小説があると見て間違いない。
にとりは小説とは異なり、姿を眩ませることに成功したわけではないが、スペルカードを行使した後に霊夢や魔理沙の許から去っている。
この、”迷彩を行った後に主人公の前から姿を消す”という点も小説とにとりの共通点といえるだろう。
また、上位スペルカード、光学「ハイドロカモフラージュ」もこの流れを汲んだものであると考えられる。唯一異なる点は、光を用いた迷彩が水(Hydro)を用いたものに変化しているという点である。
次に、人間との交流を見てみよう。
劇中、霊夢や魔理沙は疑問の声を上げていたが、にとりは人間と河童は古来の盟友だと語った。これはキャラ設定.txtにも
河童は人間を隠れて観察していた為、仲が良いつもりでいる
と記されている。さらに、にとりのテーマ曲の副題が「Candid Friend」即ち”率直な友人”と冠していることも河童が人間を友人と認識していることを示唆させる。
小説の中ではどうであっただろうか。
まず、河童が滅多に人前に姿を現さない。これは、キャラ設定.txtの「隠れて観察していた」という部分と重なる。また、人間が河童を知るより、河童の方が人間のことを遥かによく知っているとされることも、劇中の河童と符合する(尤もその理由については、幻想郷では隠れて観察していた為、小説では河童の国に迷い込むなどして訪れた人間が多い為、と差異が見られるが)。
さらに、河童と機械についても言及することができる。
小説の中に描かれている河童の国では(小説執筆当時の)人間社会より遥かに機械工学が発展していた。その様子は、何でも自動で大量生産できるという話であるから、現代に匹敵、或いはそれ以上の技術力を持っていることになろう。幻想郷の河童も同様に高度な技術力を持っており、この点も一致を見ることができる。
加えて、にとりの服にも小説との接点を見ることができるだろう。
小説『河童』に描かれてる河童は、カンガルーのように腹部に袋を持っており、所持品をその中にしまっていると記されている。
にとりの衣装は、”河童”と”合羽”の言葉遊びと考えられるが、そのスカートに無数のポケットを有する点は、或いはこの点がモチーフになっているのかも知れない。
また、芥川龍之介は絵も描き、特に河童をよく好んで描いたという。
その河童の絵に『水虎晩帰之図』(同名複数)があり、中には葦(或いは蒲)らしきものを持つ河童の姿がある。にとりがその右手に蒲の穂らしきものを持っているのは、この芥川龍之介の描いた河童の姿に端を発していると考えられる。
このように、にとりと小説『河童』の比較を行うだけでも、その容姿やスペルカード、その立ち回りなど多くの事柄を結び付けて理解することができる。
しかし一方では、未解明の要素も多分に残されている。これらの要素の源流は、何処にあるのだろうか。