諏訪の地に諏訪大明神こと建御名方神が侵入した際、その地に先住していた民族が天竜川の河口で迎え撃った。
その民族の長が洩矢神であった。
そして、
洩矢ハ鐵(鉄)輪を持シテアラソヒ、
明神(建御名方神)ハ藤ノ枝ヲトリテ是ヲ伏シ給フ
『諏訪大明神絵詞』祭四より
つまり、洩矢神は鉄の輪、建御名方神は藤の枝を以って戦い、建御名方神が洩矢神を下したという。
これは、この神戦自体が神奈子と諏訪子の戦いに反映されているように、諏訪子、神奈子の両神に深く関わるエピソードである。
洩矢 諏訪子の姓、”洩矢”は勿論、神具「洩矢の鉄の輪」や、「諏訪大戦 ~ 土着神話 vs 中央神話」のスペルカードもこの神戦に由来する。
まず、「諏訪大戦 ~ 土着神話 vs 中央神話」では、先の神戦を再現するかのように鉄の輪と植物の蔓を模した弾幕が上下から、交互に出現する。
一方の神具「洩矢の鉄の輪」もそうだが、鉄の輪を模した弾幕が赤い弾によって表されているのは、
諏訪子の持っていた大量の鉄の輪は、
たちまち錆びてボロボロになってしまった
「キャラ設定.txt」
ことの反映と考えられる。
また、この神戦がある為に神奈子のテーマ曲は「神さびた古戦場 ~ Suwa Foughten Field」と名付けられている。なお、”Foughten Field”とは古戦場のことであり、”神さびる”とは古びて神々しくなるさまを表す。
さて、諏訪子が洩矢神をモチーフにしていると先述した。
この洩矢神は現在、岡谷市の洩矢神社に祀られている。その神社は諏訪湖から流出する天竜川の南岸側、南方の端山の麓に鎮座している。
なお、対岸(北側)には、今となっては印刷会社の裏地にひっそりと石祠があるのみだが、そこに藤島明神が祀られ、同地には「諏訪明神入諏伝説の地」という碑が建てられている。
これらの地は共に、先の神戦で両神が陣を張った場所の跡地とされている(ただし、両神社共に遷座の遍歴が見られる)。
そして、この洩矢神は東風谷 早苗考察で述べたように神長官・守矢一族の祖神である(これは東風谷 早苗が諏訪子の遠い子孫であるという点で一致している)。
その一方で、神戦における”洩矢神”の名は、守矢一族を象徴化したものと解釈する見方もある。例えば、神長官守矢史料館館内の壁にある『守矢家について』という説明には、
今から千五・六百年の昔、大和朝廷の力が諏訪の地に及ぶ以前
からいた土着部族の族長で洩矢神と呼ばれ…
と、守矢一族が洩矢神と呼ばれていた、という記述がある。それを当て嵌めると、”洩矢神を長とする先住の民族”とは、守矢一族を長とする政権体制と、それに従う人民を表しているということになる。
その上で先の神戦を読み直すと、守矢一族を政権の頂に据えた体制が、建御名方神を信仰する民と対峙し、敗北した。
結果として、建御名方神の末裔を名乗る一族が大祝という新しい政権の頂上に立つと同時に、祀られる者という最高神職の地位に就いた。
一方で、政権のトップから下った守矢一族はその直下で、神長官という筆頭神官の地位に就いた、という解釈ができる。
この守矢氏と大祝(神氏)一族の政権交代劇は藤森 栄一氏の『藤森 栄一全集 第十四巻 諏訪神社』に拠れば、おおよそ五~六世紀、遅くとも八世紀には行われていたと見られている。先述の『守矢家について』にも千五・六百年前とあった。この頃はまだ、政治に祭祀が密接に関わりあっていたと思われる。
その為、政権の交代と共に、祭祀形態も変化することは十分に考えられるであろう。
『風神録』にある
元々諏訪子のものだった神社を神奈子が乗っ取った
という現象は、この守矢一族を頂点とする祭政体制から、大祝を頂点として神長官(守矢一族)が祀る、という体制への変化の流れをよりストレートに表現したものとも考えられるだろう。
ところで、洩矢神の神格については学者の間でも諸説あるのが現状のようである。
その中で幾例か取り上げてみると、ミサクチ神と同一視されたり、ミサクチ神を統括する存在とされたりしているようである。
ここでの後者の考えは、洩矢神を守矢一族の象徴と見立てる考えとも関連しているのかもしれない。
それは、ミサクチ神は守矢一族の人間のみしか祭祀することができないとされ、また一族のみにミサクチ神上げやミサクチ神降しといった祭祀の方法が伝えられていたからである。
一方、これを諏訪子に関していえば、
山に住んでいた様々な神様のリーダー
「キャラ設定.txt」
という部分や
遥か古代、彼女は驚異的な信仰を得ていた『ミシャグジ様』を
束ねていた神だった。
「上同」
といった記述に重なる。或いは諏訪子の二つ名「土着神の頂点」もミサクチ神を統括する洩矢神、もしくはミサクチ神を祭祀することで政権の築き上げた守矢氏の象徴たる洩矢神のイメージと重ね合わせることができるのではないだろうか。
土着神、という点について見ると余談ではあるが、諏訪子のテーマ曲「ネイティブフェイス」は英語の”Native Faith”、訳せば”土着信仰”を表すということも記しておきたい。
それは勿論、単純に諏訪子がミシャグジ様を束ねる力を持っていたからともいえるが、一方で洩矢の王国における、守矢氏のような諏訪子の子孫の一族が祭祀・政権を掌握して体制を確立していたことの表れだったのかもしれない。
すると、
当時(ミシャグジ様を束ねていた時)は神であると同時に
一国の王として王国を築いていた。
「キャラ設定.txt」
という一文も、また違った様子に見えるかもしれない。
さて、先程は神戦の伝承を基礎として洩矢神と諏訪子について見てきた。
この他、諏訪子には山の神様という神格もあった。そこで、諏訪盆地の周囲にある山に対する信仰を見てみると、その幅は実に広い。
それは、諏訪盆地の四方には山々が聳え立ち、その中には蓼科山や八ヶ岳、霧ヶ峰といった著名な山峰も含まれているという地理的条件も大きく要因していると考えられる。
まず、八ヶ岳についていえば、『諏訪舊跡志』に岩長姫を祭るという記述があり、神の宿る山と考えられ、信仰の対象になっていたことが窺える。蓼科山にも同様に崇拝の対象とされていたようである。
また、諏訪盆地の南方にある守屋山も諏訪の信仰と深く関わっていた。
守屋山は諏訪大社上社の御神体となっている山である。その信仰としては、昔から”モリヤサマ”と呼ばれ特別視され、その上空に雲が漂うと必ず湖の周囲に雨が降る、というように山としてのみならず、天候にも関わる信仰をも生じていた。この守屋山について、冒頭で紹介した『守矢家について』の説明の続きを見てみよう。
…土着部族の族長で洩矢神と呼ばれ
現在の守屋山を神の山としていた…(後略)
諏訪における多様な山の信仰の中において、洩矢神もまた山と深く関わっていたようである。とすれば、諏訪子が山の神様であることも納得できるであろう。
ところで、諏訪では洩矢神(或いはミサクチ神)が明神との戦いに敗れ、御射山に逃れたというような俗伝も伝わっていたという(一説には御射山の名はミサクチ神から来ているとさえも)。
ここからも、洩矢神(ミサクチ神)と山の関連の一かけらを窺い知ることができるのではないだろうか。
コラム.2 ― 守屋山と物部守屋 ―
守屋山。
その山は、既述したように諏訪大社上社の御神体とされている。しかし、意外なことに守屋山からは諏訪大社に纏わる事物は殆ど見られないという。
そんな中ではあるが、山の東峰頂上付近には一つの石祠が祀られているという。
ところが、その祠に祀られているのは、建御名方神ではなく物部守屋(もののべもりや)とされている。
この守屋大臣に関しては、一般には河内(現大阪府の東部辺り)、渋川の家で没したといわれているようだが、江戸時代後期(一八三四)の『信濃奇勝録』では、その子孫が信濃に落ち延びたというような伝説を載せている。
また、守屋神社なる神社が諏訪に存在している。
ところで、先節では諏訪大明神と洩矢神の神戦の伝承を取り上げたが、その伝承は室町時代の『諏訪大明神絵詞』より古く、鎌倉時代宝治三(一一四九)年の『大祝信重解状』にも類似した伝承が伝えられていたという。
その昔、守屋大臣の所領に明神が進出し、互いに論争と合戦を行ったものの、決着がつかなかった。そこで明神は藤鎰(いつ)を、守屋は鉄鎰を持って引っ張り合い、明神が勝利してその地に居を定めた。さらに、明神は持っていた藤を社の前に植えたという。
ここでの守屋大臣は洩矢神と同一視する見方も存在するが、一方ではその表記などから、これを物部守屋に擬する見方も存在する。
後世に至っては、守矢一族が洩矢神を祖としつつも、自らを物部守屋の後裔でもあると名乗ることさえあったようだ。
この”洩矢”神、”守矢”家、物部”守屋”という名称の音の一致からか、これら互いの関係は複雑な様相を呈している。洩矢神について紐解くのは、どうも一筋縄では行かないようである。