前節では、「二拝二拍一拝」によって神々と対面することになった霊夢と魔理沙。
弾幕ごっこをお祭り、神遊びと称して次々とスペルカードを放つ諏訪子。
ところで、お祭りとは、あらかじめ神を迎える為の祭場を用意し、そこに神を降臨させた上で、降臨した神に対して神饌(しんせん)や神酒を捧げ、もてなすことであったという。
神から見れば、地上に降りて遊ぶということか。
神輿渡御や神楽に神をもてなす意味が込められていることもあるという。それに付随して、神に願いや感謝の礼を述べる為に祝詞が奏上される。
その他、神が降臨している機会なので、神の意志を伺う為に託宣や卜占が行われることも少なくない。
行う行事の多さや、神社ごとのお祭りのバリエーションは千差万別であるが、ここでは極めて端的にその概要を述べた。
ここで重要なのは、お祭りの時は神がそこに降りてくる、ということである。
神社が建てられるようになってからは神は社に常駐していると考えられるようになったが、それ以前は神には天上に漂っていると考えられていた。
そこで、必要な時― 祭祀や託宣 ―には祭祀場を設け、依代を準備して神を降ろしたのだそうだ。お祭りの時に神は地上に降りてくる。
となれば、その時は特別な時間である。そうした特別な、非日常の時を”ハレ(晴れ、霽れ)”という。表向き、公での舞台を”晴れの舞台”、そうした場所に出る姿を”晴れ姿”というように。
一方で、非日常ではない、つまり普段の日常を”ケ(褻)”という。この”ハレ”、”ケ”の語はStage EXTRA道中の曲名「明日ハレの日、ケの昨日」にも出現している。お祭りはハレの日なのである。
そうしたハレの日は、非日常であると同時に神が降りる為に神聖ともされた。ここで”ハレ”と”ケ”の関係を”穢れ”と共に合理的に解釈するという方法を見てみたい。
それに拠れば、”ケ”は日常であると同時に、生命力のようなエネルギーを表す語でもあるという。
この”ケ”は日常を繰り返すと減少し、枯渇してゆく。これが”穢れ(ケ枯れ)”であるという。そして、お祭り、つまり”ハレ”の日はこの枯渇してしまった”ケ”を充填する役目を持つのだという(無論、お祭りには先に挙げたように神を慰撫し、鎮めるという重要な役割も担っているが)。
さて、お祭りの際には神を降臨させると先述した。
神の降臨に関していうと、昔は神(或いは霊的な存在)の出現のことを”タツ(顕つ)”といった。今でも「夢枕に先祖が立つ」という言い回しにも、この考えが反映されているといって良いだろう。
ところで、現在”祟り”というと、人が神意に背いた為に神が災いをもたらすこと、というように良くない意味に捉えられがちである。
しかし、昔の”祟り”の語も先の”タツ”から派生した語で、本来は神の出現を意味したのだという。とすれば、祟りやすい神とはこの世に出現しやすい神、またそれだけの強力な力を持つ神と考えられる。
では、神は何故人前に出現したのだろうか。
『古事記』では、垂仁天皇の御子、本牟都和気がものを言えないのは出雲大神の祟りであると天皇が夢に見たという説話がある。
ここに”祟”の文字が用いられているが、この祟りは出雲大神が自身の神殿造営を要求する為であったという。『日本書紀』でも同様に神が災いをなす、即ち祟る説話が見られるが、その多くはお祭りや神社の造営を求めている。
こうした話から見ると、どうやら神は人間と交信し、お祭りを要求する為に祟ることが多かったようである。
すると、祟りやすい神というのはそれだけお祭りを要求することが多かったということだろうか。
『東方風神録 ~ Mountain of Faith.』においてミシャグジ様は
生誕、農作、軍事、様々な事柄の祟り神であり、
蔑ろにするとたちどころに神罰が下るという恐怖の神様
「キャラ設定.txt」より
とされていた。そして、諏訪子はミシャグジ様を統括する存在。とするともしやこの神様、相当なお祭り好きなのではないだろうか?
さて、”祟り”とは本来は”タツ”と同様、単に神の出現を表す語であったと先述した。
この語に関連して、ある一つのスペルカードに着目したい。
土着神「七つの石と七つの木」
土着神とは、端的にいってしまえばその土地に根付く神、という位置付けになろうか。一方の”七つの石”と”七つの木”というのは、東風谷早苗考察 第6節でも述べたように、
諏訪の七石
- 硯石
- 御沓石
- 児玉石
- 御座石
- 小袋石
- 蛙石
- 亀石
七湛木
- 桜湛木
- 峯湛木
- 真弓(檀)湛木
- 橡湛木
- 松湛木
- 檜(干草)湛木
- 柳湛木
のことであった。
特に、~湛木と称されるこれらの木は”大御立座神事(おおみたてまししんじ)”の中の湛神事においてミサクチ神を降ろすポイントとされたものでもあった(木以外でも湛と呼ばれ、ミサクチ神を降ろす場所はあった)。
ここで注目したいのは~湛木や湛神事の名にある”湛(たたえ)”である。
これについて、折口 信夫氏は以下のような考察を行っている。
此等の七木は、桜なり、柳なりの神たたり木と言ふ儀が
忘れられたものである。大空より天降る神が、
目的を定めた木に憑りゐるのが、たたるである。
即ち示現して居られるのである。
『幣束から旗さし物へ』
つまり、湛はたたりの語義であり、神の出現を意味する言葉であったとしている。
なお、同氏はこの用例として『万葉集』の「向ひの山に月たたり見ゆ」を挙げている。これを継承してか、『日本民俗語辞典』でも”湛”を”祟り”と同様に神霊がそれと定め宿る木であると記している。
この例のように、ミサクチ神を降ろす”湛”の語についても、”祟り”と同じように神の出現の意味と解することができるようだ。
とすれば、ミシャグジ様が祟り神とされ、そのスペルカード祟符「ミシャグジさま」にも”祟”の文字を冠していることは自然な流れだったということができそうである。
ただし、一方で藤森 栄一氏は『藤森栄一全集 第十四巻 諏訪神社』にて”湛”を神を讃えること、或いはそのまま文字通りの水を湛えるの意味という二つの見方を示している。また、宮地 直一氏は『宮地直一論集 穂高神社・諏訪神社の研究(上)』にて”祟り”からの派生と、神を讃えることからの二つの意見を採っていたりしており、その解釈は学者の間では必ずしも一定ではないようであるが。
コラム.1 ― 湛神事 ―
先述した湛神事について、もう少し詳しく見てみよう。
湛神事は、古くに行われていた祭祀で、三月酉の日に行われた御頭祭(酉の祭)に続けて行われていたものである。当時、春先の一連の神事は”大御立座神事(おおみたてまししんじ)”とも呼ばれ、晩秋に行われる”御立座神事”と対になっていたという。
この”大御立座神事”では、建御名方神の末裔・大祝の代役として予め年の初めに”神使(おこう)”が選出される。
なお、時代によって人数やその選出先は変わっていった。最初は神氏系の子供から六人が選出されていたが、中世頃になると各県から二人ずつ計六人を選出されるようになり、徳川期には二人になったというような具合である。
中世頃の記録に拠れば、このうち外県とあがたへ向かう神使は”外県御立座神事”と称して午の日に発つ。
そして、残る神使も酉の日に内県うちあがた・大県おあがたの二地方へ湛神事(廻神とも)に向かったという。
なお、外県の行程は最も遠く(上伊那郡の天竜川、三峰川の合流点付近まで)向かい、一方の内県は現茅野市内、大県は上諏訪・下諏訪・岡谷の辺りを巡り、湛神事を行ったという。
そうして、所定のポイントで神使はミサクチ神を降ろし、また次の場所へと向かったようだ。
一方で晩秋の”御立座神事”では同じ行程を巡り、ミサクチ神上げを行っていたようである。この他鹿の頭を捧げた後に行う儀式など、この一連の神事には呪術的要素が強いといわれている。
また、学者の間ではその義について諸説を交わしており、ある方は鹿の頭を捧げることからこれを狩猟に纏わる祭祀とし、またある方は大御立座神事の行われる期日が田を耕す直前の時期、かつ御立座神事は収穫の後であることから、一連の神事は農耕的儀礼に属するであろう、といった見方をしていたりもする。
その結論は未だ明瞭には示されていない。
しかしながら、この神事にもミサクチ神が深く関係していることは確かなようである。湛神事に迫る為には、さらにミサクチ神について解き明かすことが必要のようである。