昔、嵯峨天皇の御代に一人の女性がいた。
女性はある公家の娘で、またある司の長男と夫婦になる約束をしていたのだが、男は別の女と契り、この約束を忘れてしまった。
これに嫉妬し、怒った女性は貴船神社に参拝した後に宇治川に七日七晩その身を浸して生きながらの鬼と化したという。
そして、約束を忘れた男とその一族を呪い殺した。後にその怨霊を鎮める為に、その女性を宇治の橋姫として祀った。
今でも宇治の橋姫は嫉妬深いといわれ、婚礼の際には宇治橋を渡らないのだという。
そのような伝承を『艶道通鑑』は伝えている。
このように、ある女性が嫉妬に狂い、貴船神社に詣でた後に宇治川に身を浸して相手の男に復讐をする、というような型で伝えられているのが京都にある宇治橋に纏わる橋姫の物語の著名なものである。
この”橋姫”というのはいうまでもなく、『東方地霊殿 ~ Subterranean Animism.』に登場する水橋 パルスィの種族名である。
この宇治橋に纏わる橋姫の物語は他に『平家物語』(屋代本)の「剣の巻」にも同様の型のものが伝えられている。
そこでは女性は貴船神社に篭もり自らが鬼となって相手の女を取り殺したいと祈り続けたところ、七日目にして”姿を作り変えて宇治川に三七(二十一)日間浸れば鬼と化すであろう。”という神託を得た。
そこで女性は
長タケナル髪ヲ五ニ分テ松ヤネヲヌリ、
巻上テ五ノ角ヲ作リ、面カホニハ朱ヲサシ、身ニハ丹ヲヌリ、
頭ニハ鉄輪ヲ頂テ、続松タイマツ三把ニ火ヲ付テ中ヲ口ニクハヘテ
夜深人閑テ後大和大路ヘ走出デ南ヲ指テ行ケレバ…
とあるように異形の様相をして神託通りに宇治川に浸り鬼となった、と伝えている。
この型の話は他にも先述の「剣の巻」をモチーフにした謡曲『鉄輪』や、『山城名迹志』(巻十五)などにも伝えられているようだ。
※余談だが、パルスィが幾つかの弾幕を放つ際に両手を頭の上に向けて両目を瞑る動作をするが、これは鬼となる為に角を模すかのように髪を巻き上げたり、鉄輪を被った女性の姿を表したものか。或いはその女性が川に浸っている様子を再現しているのかもしれない。
なお、謡曲『鉄輪』での女性は丑の刻参りの格好と類似点を持つようにこの橋姫の物語は丑の刻参りのモデルになったともされている。
江戸時代の鳥山石燕は自身の一連の画図の中で橋姫、丑刻参の両方を描いているが、この二つの絵に描かれた女性の姿が似ていることもこの二者の関連を示唆しているのではないだろうか。
ところで、この丑の刻参りであるが、その名はパルスィのスペルカード 恨符「丑の刻参り」、恨符「丑の刻参り七日目」 にも表れている。
丑の刻参りは”丑の刻詣で”とも呼ばれ、日本において相手を呪詛する例の中でも特に著名な例といえよう。
このいわゆる丑満つ刻(午前二時半から三時の間)に神社に密かに詣で、呪いたい相手に見立てた藁人形を神木や鳥居などに打ち付けて呪うという姿は良く知られている。
なお、この丑の刻参りは願掛け(願望成就の為に寺社に詣で、祈祷を行ったり供物を供える風習)の一種なので、通例は一日のみではなく複数日に渡って行うものであるとされる。
丑の刻参りの場合はこの期間が七日間とされるのが通常で、その満願の日(つまり七日目)には釘で打った部分が痛み、相手は死に至ると考えられていた。
故に難易度Hard以上では”七日目”という文字が付加しているのであろう。
これに関して弾幕を見てみると、針弾が六方向に飛んでゆくのは、その数字から既に六日間分の参詣が成功していることの暗喩であるのかもしれない。
余談として、丑満つ時は草木が眠り、魑魅魍魎が跋扈する時間帯ともいわれるが、同時にこの時間に寺社に参拝するとその願いは必ず叶うという信仰がかつてはあったらしく、この時間と寺社への参拝が結び付いていたようである。
加えて、神木に釘を打つ風習は元々単に祈願を掛ける為のものであったという。その祈祷を他人に見られると効果が無くなってしまうと考えられていた為に、この祈祷は深夜に行われたらしい。
このような深夜の寺社への参拝、祈願掛けの釘打ちなどの風習が一つの基礎となって、現在知られる丑の刻参りの風習が形成されていったようである。
ちなみに、この丑の刻参りはその話題性から、江戸時代によく話題に取り上げられるようになったという。
これらの嫉妬や丑の刻参りといった要素から、水橋 パルスィのモチーフはこの宇治の橋姫であると考えられる。
さて、宇治の橋姫に話を戻してみると、先述した相手を呪詛するものとは異なる伝承も伝えられているようである。古く、『古今和歌集』では
さむしろに 衣かたしき 今宵もや 我をまつらむ 宇治の橋姫
千早ふる 宇治の橋姫 なれをしぞ あはれとは思ふ 年のへぬれば
といった歌が詠まれており、宇治の橋姫に纏わる恋物語の片鱗が見受けられる(ただしその物語の詳細は明らかではない)。
また、『古今為家抄』には土民曰くとして、宇治川のほとりにある夫婦が住んでいたが、お琴は龍宮に宝を捜し求めたが帰らず、悲しみ嘆いた女性が宇治端のほとりで死に、橋守明神になったという口碑が伝えられ(『山城名勝志』収容)ていたという。
これよりしっかりした物語としては、『御伽草子』などに見られるものが著名であろうか。
昔、つわりを起こした橋姫が七色(尋?)の若布が欲しいと夫の男に言った。
しかし男は帰らず、橋姫は男を捜して海辺まで行くと一軒の家があり、その中にいた老尼から男が竜王に捕らえられ婿となっていることを知らされた。
また、この老尼は自身が竜王の草を預かる者であると自身の正体を明かし、今夜男がここを訪れることも教えた。
そうして日にかけてある鍋の中身を決して覗いてはならないということを言った。その戒めを守って橋姫が待っていると、やがて男が妖怪と共にやって来て、「さむしろに~」の歌を歌う。
妖怪が去った後に橋姫と男は再会をすることができたが、それも長くは続かず、男は自身の不遇を嘆いた。そして夜が明けると二人は再び別れた。
橋姫はこのことを男のもう一人の妻に話すと、もう一人の妻も橋姫同様海辺の家へとやって来た。
しかし、この妻は鍋の中を覗き、男が現れた時に「さむしろに~」の歌ばかり歌うので自分のことは思ってくれないのかと嫉妬し家の外に飛び出すと、今まであった家や人が悉く消え失せてしまった。
これを聞いた橋姫はもう一度家のあった場所にやって来るが、そこには何の跡形も無く、橋姫はもう一人の妻に話したことを後悔した。
というような筋書きの物語である。
こちらでも嫉妬という要素が見られる点は留意すべきであろうと思われる。
これと同様の物語は『奥儀抄』などに見られ(ただし『奥儀抄』に引用されている物語では鍋に纏わる禁忌が無いなど、一部で異同がある)、また『山城国風土記』にも橋姫が若布を欲しがって男が海に行って探すも見つからず、笛を吹くと竜神に愛でられ婿とされてしまった、という物語が記されている(『毘沙門堂本古今集註』)。
ただしこの物語では男は竜宮の火を忌み、食物を食べなかった。その為、一度は別れるものの最後は元通りの夫婦に戻ることができた、といった具合にもう一人の妻の存在が無く、また結末も違うものになっている。
このように宇治の橋姫には様々な伝承が伝えられているが、丑の刻参りや強い嫉妬といった要素から、パルスィのモチーフとなったのはやはり最初に紹介した伝承であろうと思われる。
コラム.1 ― 橋姫と鬼と源頼光
本節では宇治の橋姫に纏わる伝承について幾つか参照し、パルスィのモチーフを求めた。
ここではもう一度その冒頭部で紹介した伝承に着目してみたい。
嫉妬によって貴船神社に詣で、その後に宇治川に浸って鬼と化し、人々を呪い殺したという橋姫。
この物語には、室町時代に入ってから付加されたといわれる後日談がある。
それに拠れば、後にこの鬼は一条戻り橋で源頼光の四天王の一人、渡辺綱を襲おうとしたが、その際に片腕を切り落とされてしまう、という物語である。
この鬼は綱の養母に化けてその腕を取り返すという話に続いているが、この型の話は他にも見受けられる。それは、酒呑童子の一番の部下である茨木童子の物語である。
これの著名なものには、歌舞伎の『茨木』が有名であるが、その中では渡辺綱が茨木童子の片腕を切り落とした場所は羅生門とされている。
しかしながら、渡辺綱が鬼の片腕を切り落とす、という物語の展開は一致している。
ところで、『地霊殿』のストーリーではパルスィの後に酒呑童子の配下の四天王の一人、星熊童子をモチーフにした星熊 勇儀が登場し、一方でStage1にはこれも源頼光と関わりを持つ土蜘蛛である黒谷 ヤマメが登場する。
このように、『地霊殿』のStage1からStage3までのボスキャラクターの間では共通する要素が見られる。
加えて、宇治の橋姫の物語の中で重大な役割を果たす貴船神社について見てみると、『貴船の本地』(『御伽草子』収容)なる物語の中ではある中将と鬼国の姫とが結ばれる物語が記されている。
そして物語の最後には鬼国の姫が貴船明神、中将が客人神になったと貴船神社の由緒を説いており、ここにも鬼という要素が絡んでいる。
このような点もパルスィについて見る上では一瞥すべき要素かもしれない。