東風谷 早苗雑考 ― 守りの東風 ―

永きに渡り、諏訪大社(上社)の神事の一切を取り仕切っていた神職・神長官(じんちょう)。

祭神・建御名方神の末裔として祀られる大祝(おおはふり/おおほうり)の下でその能力を遺憾無く発揮したその一族は、一つの家柄によって世襲された。

名を、守矢という。その血を源流まで辿ると、そこに一柱の神が姿を見せる。

――洩矢神(もりやのかみ)。

代々受け継がれてきたその血は、悠久の彼方の土着の神にまで遡る。

そして、洩矢神という根とは相反するもう一つの端、神の血族という枝葉は現代にまで連なり、その末は78代にまで及ぶ。

その78代頭首に、守矢 早苗氏の名がある。

洩矢神の末裔。風神を祀る人間。そして、”早苗”という名。『東方風神録 ~Mountain of faith.』ステージ5ボス、東風谷 早苗の人物像の原点はここにあると見て間違い無い。

“早苗”という名の出自はこれで明らかとなった。一方で姓の”コチヤ”が”モリヤ”の音に類似している点も見逃せないだろう。

しかし、それでもなお疑問は残る。ステージ6ボス・八坂 神奈子は風神であった。

『東方風神録』というタイトルが銘打たれているように、劇中にて”風”は不可避のキーワードである。

当の風神・八坂 神奈子を祀るという重要なポジションに位置している東風谷 早苗の姓名に”風”の一文字が含まれていることは必然である。

では何故、数多ある風の名前から”東風”が選ばれ、名付けられたのであろうか?

その論議に入る為に、まず風の名前の法則性を知らねばなるまい。

東風とは、東から西に向かって吹く風のことである。

一般に、風の名前は向かって吹く方向ではなく、吹いてくる方向の名を冠することが多い。

南から北に向かって吹く風は南風であり、西から東に向かって吹く風は西風となる。

但し、そこには無論例外もある。地域や場合によって、名前とは逆の方向から吹く風をそう呼ぶこともあるからだ。

東風の場合、西から東に向かって吹く風を”東風”と称することもあるということだ。また、地域によってその方向も一定ではない。例えば、北東や北北東から吹く風を”東風”と呼ぶ地域もある。

このように、実は風の名前と方角は必ずしも一致しない。また、このような一般的な例からは東風谷 早苗の像は中々見えてこない。

とすれば、東風谷 早苗の姓を東風たらしめる特別な何かがあるはずである。ここで着目して頂きたいのは彼女のスペルカードである。

奇跡「神の風」

東風谷 早苗のスペルカードの中で、唯一”風”と名付けられたスペルカード系列である。東風谷 早苗と二柱の神々の立ち位置が諏訪大社に端を発するものであると考えたとき、このスペルカードの原典も見出せる。

諏訪大社の縁起書として室町時代に記された『諏訪大明神絵詞(すわだいみょうじんえことば)』(上)には、以下のような旨の内容が記されている。

弘安2(1279)年の夏の神事の際、巨大な竜が雲に乗って西に向かう様子が見えた。参拝者は目の届く限りでその姿を追ったが、雲間からは竜の腹のみしか見えず、その頭も尾も見ることができなかったという。

人々は何事かと心配した。

するとこの2年後、弘安4年に蒙古襲来があった。
しかし、その際に激しい暴風雨が発生し、蒙古の軍船は全て破壊された。

このように、諏訪明神は日本の国を守っているのである、と。

蒙古襲来とは、中国の王朝・元のフビライ・ハンによる日本遠征であり、歴史では元寇とも称する。

元国の襲来は、文永11(1274)年と弘安4(1281)年の二度に渡ったが、いずれも日本の激しい抵抗や、暴風雨という自然現象により失敗に終わった。また、この二度の襲来を「文永・弘安の役」と称することもある。

先の『諏訪大明神絵詞』に記された内容は、この二度の元寇のうち、後者の弘安の役で元の軍船を襲った暴風雨は諏訪明神、即ち建御名方神によるものであると述べている。

また「神風」という単語を見ると、この元寇の際に、諏訪明神ではないものの、国土防衛の為神が吹かせた風という意味がある。

なお、元の軍船が日本に攻め入ろうとしたのは7月30日のことであるという。この時期から、神風なる暴風雨とは、台風のことだったのではないかと考えられている。

では、ここでスペルカードに注目して頂きたい。弾幕の形状は中央に目となる空白を持った渦であり、この台風を模したものであると考えられる。

一方でその名、奇跡「神の風」もこの台風を神風といったことに由来すると考えられるのだ。神が吹かせた神風、それは日本の軍勢にとって奇跡であったに違いない。

――弘安4年、7月。

石清水八幡宮では、別の物語が動いていた。

一度元寇を経験した日本は、二度目の襲来を恐れていた。そこで、朝廷より命を受けた叡尊えいそんという高僧が門徒を率い、神前にて祈祷を行っていた。

叡尊はこの際、

東風を以て兵船を本国に吹き送り、

来人を損なわずして、乗るところの船をば焼き失わせたまえ」

と祈ったという。

つまり、東から吹く風により敵国の船を送り返し、来たる敵軍の人命を失うことなく、船を焼失させよ、ということである。

そしてこの祈祷の後、叡尊は暴風雨で敵国の軍船が大損害を受けて退散したことを知る。

ここに、”東風”という単語が出現する。叡尊が祈祷を行っていた場所は八幡宮であり、その祭神は誉田別命である。

故に諏訪明神との強い関連は見られないが、弘安の役の際にて、国土を守った神風に関する説話としては無関係ではないだろう。

守矢の姓に代わり、東風谷の姓を持つ東風谷 早苗。

上の弘安の役の事例から東風が守りを意味すると仮定すれば、”東風”の語より”守”の字を導けよう。

…”東風”谷と”守”矢は、決して遠い関係では無さそうだ。

また、ここで”谷”という字も一考すべきであろう。谷は、山と山の間の地形であり、軍事的に見ればそこに攻め入ることは難しい。つまり、谷は自然の要害であり、守りに向いた土地である。

…こうは考えられないだろうか?

外の世界から移転した守矢の神社。

妖怪の山には天狗が住んでおり、新参である守矢の神社を良しと思わぬ者も多かったであろう。守矢の神社は、何時攻め入られるか判らない状況であったと考えられる。そこまで極端な状況ではなかったにせよ、敵視されていた可能性は否めない。

その上、守矢の神社は博麗神社にも手を伸ばした。故に、霊夢と魔理沙が劇中守矢の神社へ侵入を試みることになった。

「東風を以て敵を送り返せ」

神風によって日本の国土が守護されたように、神風によって守矢の神社も守護されんことを。

――”東風谷”の姓は、堅固な守りを意味しているのかもしれない。

― 出典 ―

  • 『東方風神録 ~ Mountain of Faith.』 上海アリス幻樂団製作 2007

- 参考文献 -

  • 『宮地直一論集 穂高神社・諏訪神社の研究(上)』 宮地 直一著 株式会社桜楓社 S.60
  • 『宮地直一論集2 諏訪神社の研究(下)』 宮地 直一著 株式会社桜楓社 S.60
  • 『藤森栄一全集 第十四巻 諏訪神社』 藤森 栄一著 株式会社學生社 S.61
  • 『神長官守矢史料館のしおり』 茅野市神長官守矢史料館編集刊行 H.18改訂版発行
  • 『日本奇談逸話伝説大事典』 志村 有宏・松本 寧至編 (株)勉誠社 H.6
  • 『図説日本呪術全書』 豊島 泰国著 株式会社原書房 1998
  • 『ビクトリア現代新百科』 渡辺 ひろし編集責任者 株式会社学習研究社 1973
  • 『広辞苑 第五版』 新村 出著 岩波書店 1998
  • 『風の名前』 高橋 順子、 佐藤 秀明著 株式会社小学館 2002
  • 『平凡社 | 気象の事典』 浅井 冨雄・内田 英治・川村 武監修 株式会社平凡社 1986

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