名高い山々に囲まれた諏訪盆地。ここには、諏訪湖が湛えてられている。
その諏訪湖の東岸部に、二つの神社が存在する。一社は諏訪市上諏訪茶臼山に鎮座する手長神社、もう一社は、同市四賀普門寺に鎮座する足長神社である。
これらの神社に祀られている神々は各々、手摩乳命(てなづちのみこと)、足摩乳命(あしなづちのみこと)だとされている。
なお、この二柱の神は八岐大蛇神話に登場する神で、八岐大蛇の生贄となりそうであった稲田姫命の両親神でもある。
なお、八岐大蛇から救われた稲田姫命は素盞鳴尊と結ばれて大国主命を生んだといわれる。『古事記』では建御名方神は大国主命の息子とされている為、手摩乳命、足摩乳命は建御名方神の曾祖父母神ということにもなる。
その一方で、手長神社の由緒記に昔は手長大明神、手長宮などと呼ばれていた、とあるように元来は手長(或いは足長)といった手摩乳命、足摩乳命とは異なる神格を祀っていたと考えられる。
これらの手長・足長が、諏訪子のスペルカード土着神「手長足長さま」の端緒である。
スペルカード中の弾幕を見てみると、赤と淡い緑という二種類のレーザーが各々手長神の長い手、足長神の長い足を表しているのだろうと窺える。
では、この手長・足長とは一体どのような存在であったのであろうか。
そこで『諏訪大明神絵絵詞』(祭七)に載る諏訪大明神の奇瑞譚に目を向けてみると、そこに手長の名を見ることができる。
後三條院の御代、承久年中に諏訪大明神の神幸(御神渡りのこと)を見ようとする僧・たふと房なる人物がいた。ある夜遂にその機会を得て、大軍が侵攻するような大音響が轟き、神幸が見られるのかと思われたその時、空から声がしたという。
手長ありや、目きたなきもの取て捨よ
その声がしたかと思うと、たふと房に近付く気配があった。さらに「あらくすつな」という声がしたかと思うと、たふと房は突然熟睡してしまった。
翌日明朝、たふと房が目を覚ますとそこは、遠州のさなぎの社という場所であった。そこは諏訪湖、天竜川の末に当たる場所であり諏訪とは縁はあるものの、諏訪から七日程は掛かるという距離を隔てていた。
このような奇瑞を伝えており、この伝承では手長神は諏訪大明神の命令に従う眷属・従者といった立ち位置になっている。
しかし、『風神録』における手長・足長は諏訪子のスペルカードとなっている。
これは何故なのだろうか。
その点について考える為に、より詳しく手長・足長について見てみたい。
そこでまず『宮地直一論集 穂高神社史・諏訪神社の研究(上)』には高島小学校の報告として、”手長は足が極端に短いが手は長く、逆に足長は足が極端に長いが手は短い”という外見や、”二神は湖中の魚などを捕る際には常に足長が手長を背負って漁を行う”といった様子を示す旨の記述がある。
さらに同書では『日本傳説叢書 「信濃の巻」』の記述として
手長神社の祭神は諏訪明神の家来で、手長・足長と呼ばれてゐる
大男(デイダラボッチとも呼ばれてゐる)で、
此神領地に数箇所水溜のあるのは、手長・足長の足跡の凹地に
水が溜ったのだと言われてゐる。
という文を紹介している。この文からは、手長神を諏訪大明神の家来として見ている他に、手長・足長を巨人伝承(ダイダラボッチなど)の一つとしていることが窺える。
このような巨人として描かれる手長・足長は他にも、東北地方の鳥海山に棲んでいたという手長足長などがある。
しかしこの鳥海山の手長足長は、山から降りてきては人を食らうような存在であり、どちらかといえば妖怪に属するもので諏訪の手長・足長とは明らかに性格を異にしている。
ところで、先述の記述の中で着目したいのは両神領地の数箇所にある水溜は、手長・足長の足跡に水が溜まったものだとする記述である。
手長・足長という名称自体は先のように固有のものではないが、諏訪の手長・足長はその土地にある地形を創ったという点ではその土地と密接に関わる存在であったといえるのではないだろうか。
また、両神については諏訪大明神よりも前からいた神という考えも存在しているという。このような深い土地との結び付きは、両神の土着神としての性格を示すものではないだろうか。
そうであれば、両神が侵攻者である神奈子の側ではなく、土着の諏訪子の側に付いている理由も頷けるのではないかと思われる。
加えて、その土地と結び付いているという点は他の視点からも窺える。
手長神社の由緒記に拠れば、
(前略)…特に高島城(諏訪湖の浮城)の艮うしとらに
位置するところから、諏訪藩家中の総鎮守として…(後略)
とあり、高島城の鬼門守護の役割を担っていたことが窺える。一方の足長神社の拝殿・舞屋に拠れば「上桑原村の産土神」として崇敬されていたことが記されている。これは手長神社でも同様であり、手長神社も一帯の産土神とされていた形跡があるという。
ここで、鎮守を簡略にいえば、その土地を守護する神(神社)のことである。一方の産土神は、ある人に着目した際、その人が生まれた土地を守護するといわれる神のことである。先祖伝来、或いは自らの生まれた土地の総鎮守・祭神を自らの守護神として称したものだという。
ただし現在では殆ど鎮守・産土神・氏神(一族が自身らの祖神として祀る神)の三つの神格はほぼ同一視され、混淆されてしまっているが。
なお、これらの神は特定の神に帰属せず、その土地その土地で違った神が鎮守や産土神として祀られる。しかしながら、鎮守、産土神のいずれもある特定の土地と結び付いた神格ということができそうである。
これを手長・足長に当て嵌めて考えると、手長神は諏訪藩家中の総鎮守であり、また一帯の産土神でもあった。一方の足長神も産土神とされており、それぞれ神社が鎮座している土地と関わっていたと考えられる。
こういった点からも、この二柱の神が土着神の側に属していたのだといえるのではないだろうか。
続いて、また別の視点から手長・足長について見てみたい。
先述した『宮地直一論集 穂高神社史・諏訪神社の研究(上)』では、手長・足長の容姿や漁の様子、神領地の地形の起源を紹介した後に、先人の考証を紹介している。その中に、巨人民譚の考察を行った人物の一として谷川 磐雄氏の説を要約して述べたものがある。
それに拠れば、手長足長の名称は広く流布しているものの、その性質は地方によってかなり異なる部分があるという。
例えば、先述した鳥海山の手長足長は人を食う存在であったが、諏訪の手長・足長にはそのような伝承は見られないどころか、むしろ神として祀られている。
さらにその記述に拠れば、諏訪の地の手長・足長は磐城の手長明神など他の場所同様に巨人譚の性格を持っているが、一部の手長足長にはそれすら伴わないことがあるという。そこで谷川氏の論では、壱岐の手長明神などが巨人譚も伴わない例で、同地の天手長男神社・天手長比売神社の例から考えると手長・足長なる特殊な人物を想定していたのではないか、ということである。
その上で、手長神とは物と物とを取り次ぐ役目の神であり、特に諏訪のものは人と神とを取り次ぐ役目を持っていたのではないか、と述べている。
そして後代、中次ぎの意味が薄れてくると文字通りの手の長い人物が想起され、やがて巨人譚などと結び付けられたのではないかとも記している。
これを踏まえた上で諏訪子のスペルカード、土着神「手長足長さま」に立ち戻ってみる。
第1節では、二拝二拍一拝には神様を拝む際の作法というだけではなく、人と神とが面会する為の儀礼であったのではないだろうか、と述べた。
その上で、今見たように谷川氏のいうような手長神に人と神とを取り次ぐという神格が備わっていたとするならば、そのスペルカードの行使順も興味深いものになるのではないだろうか。
霊夢や魔理沙は、まず最初に神と面会する為の作法をこなす。次に行使されるのがこのスペルカードである。
ここでは、人と神とを取り次ぐ神を対面し、その上で次なる神へと取り次いでもらう、という図式に解釈することができなくないからである。
土着神「手長足長さま」の次に控えるスペルカード、それは神具「洩矢の鉄の輪」である。
これは洩矢神、また諏訪子が神戦の際に用いた武器であり、ある意味では自身の代名詞ともいえるスペルカードである。
つまり、手長・足長(手長足長さま)に中次ぎの神格があるのであれば、手長・足長を介することで漸く、本命である守矢の神社の本当の神様に会うことができたのかもしれない。